掘割の話

掘割の話

水車
水郷柳河こそは、我が生まれの里である。この水の柳河こそは、我が詩歌の母體である。
この水の構圖この地相にして、はじめて我が體は生じ我が風は成った。
ああ、柳河の雲よ水よ風よ、水くりC兵衛よ、南の魚族よ。
北原白秋著「水の構圖」より
近くの河川や湖沼・堀割の水質浄化などに携わっている方で、効果的で経費があまりかからない方法があれば教えてください。
以下は私たちが柳川で取り組んでいる方法です。
 筑後川と矢部川に挟まれたデルタ地帯にある柳川は、市内に約400km、周辺部まで含めると約1000kmの堀割を持つといわれていますし、 その有効貯水量は100万tを超えるといわれています。それでも50年前に比べると長さに於いて50%以上の減、有効貯水量に於いては80%以上 減少しているといわれています。その昔2000kmを越える堀割は、500万tとも800万tともいわれる水を湛えて、上水道・中水道・下水道・灌漑用水・ 環境用水など、多目的に維持運用管理されてきました。しかしここ40年ほどの間は、上水道としての目的を外されたことによって灌漑用水以外は 非常にあいまいな運用になっています。特に水質に於いては50年前に比べれば無残な状態です。
 私どもは、現状を50年前に少しでも近づけようと考え、富栄養化の原因であり、その処理に多大なランニングコストが掛かる窒素・燐酸・ カリウムに注目してみました。これらは肥料の三要素だから、植物に吸収させるのが一番手っ取り早いということで、下図のような水上栽培を 6年前から試みてきました。植え付けた植物はシュロガヤツリ・カンナ・ミズカンナ・ハナミョウガなどです。中国ではムギ・トマト・ナスビ なども水上栽培で作っているそうです。
 水中にある根が窒素・燐酸・カリウムを吸収し葉や実に蓄えられます。葉で行われる光合成によって生じた酸素は、根から水中へ供給されます。 秋から冬にかけて、必ず枯れた葉は刈り取って堆肥などにしてください。水生の生き物たちが戻ってきます。是非試してみてください。
水車

掘割の歴史

 穏やかな水面を川下りの舟が行き交う柳川。まちのシンボルといえる掘割には、太古の昔からの歴史が刻まれています。
 今から約2000年前の弥生時代、地球規模の気候変動が引き起こした「海退(かいたい)」によって、有明海がつくった広大な干潟は低湿地へ、 さらに陸地へと変わっていきます。同じ頃、この地に住み始めた人々は、少し高い陸地に家を建て、湿原を掘って溝をつくり、掘り上げた土を盛り上げ 田をつくり、溝には雨水をためて生活用水や農業用水に利用しました。これが掘割のルーツだといわれています。
 やがて、7〜8世紀にかけて律令国家が確立し、条里制と班田収授法が施行されると、格子型のあぜ道や水路が整備されるようになりました。 近世の城下町はその区画や水路を利用しながら築かれたといいます。
 江戸初期、柳川藩主となった田中吉政は、城下に水を引き込むために矢部川をはじめとする河川の改修を行い、城の周りに幾重にも堀をめぐらせて 戦に備えました。町中に水路が走る柳川のまちの骨格は、ほぼこの時代に形成されました。
 立花家の治世になると、矢部川をめぐって久留米藩と百年以上も水争いを繰り返します。それは、柳川にとって水がいかに命綱であったかを物語っています。

河童とうなぎは柳川のカオばってん…

河童は当の昔に顔を見せなくなってしまった。どしけん!?(どうして!?)

うなぎも、もうすぐ姿を隠すと言う…。なしけんやかぁ?(何故だろうか?)