柳川藩祖・立花宗茂と三柱神社

柳川藩祖 立花宗茂公

立花宗茂(たちばな むねしげ)

安土桃山時代〜江戸時代前期の武将。柳河藩の初代藩主。
生涯戦では負け無しで豊臣秀吉から「その忠義・剛勇、
鎮西随一」と評され後に徳川家康の家臣・本多忠勝と
並び称された。後の徳川幕府からの信頼も篤く関ヶ原で
改易後、大名として旧領に復帰した唯一の武将である。
大友家の家臣時代に島津の大軍に立花山城を囲まれ
絶体絶命の中で宣言した「いやしくも義に背いて生きん
よりは、寧ろ死するに如かず」の言葉のままに生きた。



その人柄から多くの人を魅了し小説やゲーム「戦国無双」
などにも数多く取り上げられている。



上田秀人「孤闘〜立花宗茂〜」中央公論社


三柱神社





文政九年(1826年)創建で藩祖立花宗茂公と夫人のァ千代姫及び
岳父戸次道雪公の三神を祀り社名もこれに起因している。

戸次道雪、立花宗茂共々戦上手で負け知らず!
だからか、勝負を掛ける時、願を懸けに訪れる人が多く
「勝守」を大事に持って帰られる。

慶長五年(1600年)宗茂は西軍として臨んだ関ヶ原の戦は
直接参戦することが叶わないまま敗戦。柳川へ帰るが
改易となり一族郎党失職し浪人となった。約六年の就職活動に
より慶長11年(1606年)二代将軍徳川秀忠は宗茂を「大番頭役」
として江戸城警備の役目につけた。

再就職を果たした宗茂は慶長19年(1614年)大阪冬の陣、
元和元年(1615年)の大阪夏の陣において
徳川方として戦い、その論功行賞として
元和六年(1620年)柳川藩12万石の城主として
一族郎党共々復活した。蘇った。実に関ヶ原の
戦から20年後のことであった。関ヶ原の戦以来
島原の乱頃までの日本は歴史上一番の就職難の
時代、そんな時代に宗茂は再就職を果たし、
かつての家来を引き連れて柳川へ戻って来た。

今は17世紀前半の宗茂の時代に匹敵する就職難の時、三柱神社を
訪れる人は多い。そして「成就」、「蘇」のお守りを求める方も
多く見られる。










宗茂やその一族郎党にあやかってほしいと神官も毎日祈っている
ようだ。

只、関ヶ原の合戦の折一人柳川で留守を預かり護ったァ千代は
改易の2年後の慶長七年(1602年)熊本県玉名郡長洲町で亡くなり
(享年35才)、夫と一緒に柳川へ帰ることは出来なかった。


雷神の異名を持つ道雪公    女城主として知られたァ千代姫


三柱神社は立花宗茂公、ァ千代姫、戸次道雪公を祀っている。




三柱神社 秋の例大祭「おにぎえ」

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三柱神社